一宮市居合道協会・新心流居合術・一宮支部・初祖八幡太郎源義家・流祖関口弥伍右衛門氏成 Ichinomiyashi Iai-do kyoukai
Shin Shin Ryu Iai Jutsu Ichinomiya



 ■ 新心流居合術の歴史


新心流居合術は、武勇の士・八幡太郎 源義家公を初祖とし、流派としては、
駿河より今川一族・経国七代氏緑一門、関口弥伍右衛門氏成に始まる。

流祖関口弥伍右衛門氏成は、駿河の愛宕山麓において居合の妙を得て、桶狭間の合
戦以後、徳川家康に仕え、江戸徳川家臣団はじめ、そして全国へと伝搬した。

彦根藩、西尾藩、郡上藩、桑名藩、松代藩、美濃岩邑藩、尾州藩等に伝わる。

幕末においては、井伊直弼、河西精八郎、西郷亀藤太、坂田茂平次(埜左衛門・通貫)
等の名が見える。

当新心流居合術は、西尾藩・松平和泉守家士族子孫に伝われしものである。

現在においては、十一代山田昌孝が、飛騨高山の標高900メートルの厳しい自然環境の
中に居を構え、新心流居合術本部道場を置き、自然エネルギーの中で修行を行っている。
称号、段位の取得のみを目的とする現代のスポーツ剣道とはまったく異なり心技体一如、
万物和合の精神を学び、ひいてはこれを実生活の場で生かすことを目的とし活動している。


新心流居合術の系譜
◆初祖 八幡太郎 源義家
●流祖 関口弥伍右衛門氏成
●二代 久世十太夫
●三代 山路甚左衛門
●四代 志賀太弥兵衛
●五代 熊倉彦衛門
●六代 猪川弥左衛門
●七代 坂田茂平次(埜左衛門・通貫)
●八代 鈴木助次郎
●九代 稲垣雄之助(奥磯栄麓)
●十代 亀谷鎮
●十一代 山田昌孝



「居合ハ未ダ物ノ発セザルノ内ナリ。先ノ先トテ鞘ノ内ニアリ。モト敵ヲ切ルノ先ニアリ。
先ノ居合ヲ大極ノ太刀ト云フナリ。是故ニ抜キ放テバ剣術トナル。」
(新心流居合術奥伝)








 ■ 九代宗家 稲垣雄之助(奥磯栄麓)先生 覚書


関口弥伍衛門氏成の創始した関口新心流は明治維新以後記されている事柄、たとえば(武芸
流派大事典)(綿谷雪、山田忠史編)等を見てその系譜の疑わしいのに気付く、桶狭間合戦以
後今川氏の一族で、馬廻り衆評定衆(家老・城主)関口氏は討死にもしくは没落し、多くの諸将
は姿を消し、「その後の系譜も又つまびらかではない。ただ天正まで生き残ったのは、 瀬名氏
系・関口刑部小輔氏広は関ヶ原以後自刃し関口系の実力者は氏広の娘、松平元康の妻、筑山
御前だけとなった。」 明治維新後に脚光をあびたのは、関口流諸派の内では、柔術の開祖と言
われる、関口弥六衛門氏心(紀州徳川)であり、居合と共に関口流開祖と言われて来たが、その
系図とかの伝記にあいまいな点が多い。 関口刑部小輔氏広には男子がいたのかどうか疑わし
いのに、外記氏幸がいて、築山御前の子信康に嫁いだ加納姫の被護云々、の記述になると無理
がある。信康の妻は徳姫であり、加納姫(亀姫)は築山御前の子信康とは兄弟であり奥平信昌
に嫁いでいる。その後の記述にも随分無理が有って歴史家の常識から見ると、一等資料とは言
えない(田舎文書系譜の様に間違いが目につくのが武芸流派大事典) 関口弥伍衛門氏成は、
その正体不明の弥六衛門氏心の甥とかで時代がまるで合わない。したがって史上有名な築山
御前と結びつけて述べるような事はやめて只、関口新心流は御神体が九能山、愛宕山大権現
で徳川家康と氏成の結びつきの方を強調したい。 関口新心流祖は、駿河から一時的三河にいた。
そして駿河に戻り流儀を開く。だから駿河で発生し江戸そして全国と伝播した様である。
関口氏の娘 築山御前は、家康の正室であってその待女お万の方も家康の次男秀康を生んでいる。
築山殿の娘 亀姫 加納殿もいて徳川の直接被護があり今川没落後、関口新心流はその時点から
発生している。又、築山御前の母は、井伊氏の出身で井伊直政の保護もあり、井伊家も新心流が伝
わっていた(尚、関口外記は天正頃の武蔵の国の関口外記か)    昭和六十二年 九月十日 






 ■ 新心流居合の発生


一、新心流
二、紀州関口流
三、熊本関口流の居合剣法は同じとしても江戸新心関口流が古いのか?紀州の関口流の方が古
いのか?が問題なのだが、私の推察では先述したように、関口流居合は駿河で発生し柔術は後に
紀州徳川の関口流で完成したと思われる。関口氏の発生は、一等資料(尊卑文脈)一等資料(寛永
諸家系図伝)(今川家譜)等を参考に関口氏を考えてみたい。 三河足利長氏の子に二男が 今川の
祖 国氏、その二男が関口次郎常氏と言い、この家系は続いていないが、五男の関口五郎経国の家
系が続きこれが今川の正系で 七代目は花咲城主で関口越中守(行部大輔)氏緑であり、永禄三年
今川義元の馬廻衆(旗本 評定衆)として織田信長の桶狭間奇襲で討死にし、ほかに桶狭間には関
口を名乗る者が、三名程いる。別に今川の士族に瀬名氏がおりその系累に関口行部小輔氏広がい
て義元の妹婿、で弘治三年四月(天王寺屋宗達自会茶湯日記)に関口行部将と言うのは氏広のこと
であろう。 氏広は永禄五年に自刃している桶狭間にはいなかったので、都にいて義元の上洛を待っ
ていたのであろう。関口流(武芸流派大辞典)に氏広の子に外記氏幸という子がいた?と記されてい
るが、築山殿に兄弟がいたと言う事は、どの系譜にもないので、疑わしいと思われる。しかし、もし、
いたとしても紀州関口流につながる問題であって、新心関口流の関口弥伍衛門氏成については関
口本流の(越中守氏緑)一族という可能性が考慮される。 というのは、弥伍衛門氏成は、年少なが
らたとえば十五、六歳で桶狭間合戦の時にいた可能性を新心流目録から年代的逆算するとその年
代にあたる。それについて補足説明すると新心流関口弥伍衛門尉氏成目録には初代氏成二代服
部光安、三代山田三郎兵衛とあり三郎兵衛が慶安二年四月吉日に吉田八郎兵衛に目録を伝授し
ている。すべての箇条目録を伝授されるのは江戸後期をみるとだいたい三十歳を過ぎて伝授され
る所から山田三郎兵衛の三代前の生まれが、ざっと百年前として、天文二十年(一五五一)永禄
三年は、九才であり、もう少し前の天文十年代の生まれなれば、桶狭間合戦に出陣していた可能
性はここから生まれる。今川一族の評定衆関口越中守氏緑の一族とか、他の関口一族の子として
充分考えられるのである。(武芸流派大辞典)によると、天正三年の長篠の戦いの時、長篠城を死
守した奥平信正に十七歳で結婚した加納姫に仕えていた云々の関口外記氏幸と弥伍衛門氏成は
ほぼ同世代でありその孫であるとは考えられない。            昭和六十二年 九月十日






 ■ 松平和泉守と新心流



松平和泉守は大給松平といい室町末期の松平系図で、家康系譜は、親忠の次男長親の子孫だが、
長男の乗元が大給松平の初代で、その後家康の祖父清康の娘が大給松平に嫁しているので松平
の一族として家康と常に戦場をともにしていた。その和泉守の家臣の教授方が柳生十兵衛光厳系の
新陰流、養勇剣術や克己流を始めたのはつまびらかでない。他に新心流居合が幕末まで流行してい
たが、和泉守の家中で、新心関口流居合が発生したのはいつの頃か、これもつまびらかでない。
しかし、家中でもっとも古い今井氏に継いで、古い家臣に鈴木氏がいてその系流の私の先祖が幕末
期に新心流秘伝目録を伝授されている所から柳生流と同じく、松平和泉守は、新心流居合を幕閣に
おいて居合諸流の内でも重視していたとも充分考えられる。

和泉守は徳川一族として老中とか、大老とかを歴任している関係から幕府の中でも発言力の強い立
場であり、すでに桃山時代から殿様剣法として認めていたようだと思う。

関口弥伍衛門氏成が御三家や将軍の教授方でなかったとは言え、幕府に仕えてその道場が江戸に
あって有力大名の家臣すじが道統を守っていた。ただその支流の関口弥六右衛門が紀州徳川家に
寛永期仕えたので、紀州関口流の書類や口伝もふくめて明治維新以後発表された為か、しかし関口
流の元祖はだれか?云々よりも新心流の剣技だけ残したいものである。(本流は倒幕で壊滅状態、
尾州・紀州・肥後は官軍についた。)

(注)八代鈴木助次郎先生は、岩邑藩家老・西尾藩にいた。
維新以後身をかくし美濃武儀中学校の用務員であった。           昭和六十二年 九月十日




             





 ■ 郡上凌霜隊のあらまし



1、凌霜隊とは  
 今から凡そ120余年前、明治元年の春、鳥羽、伏見の戦いで、徳川幕府が官軍に破れ、 天下が官
 軍の手に渡されようとしていた時のことであります。 郡上藩主、青山幸宜公は、14才のため、実際の
 政治は国家老の鈴木平左衛門や、江戸詰家老の 朝日奈藤兵衛によって行われておりました。
 この人達は、4万8千石の小さな郡上藩を無事に守り続けるために、長い間恩恵を受けてきた徳川幕
 府を最後まで助けるか、官軍に従うかということで苦しみ考えに考えた。そこでようやく考え出されたのは、
 表向きは官軍に味方をし、裏面ではこっそり徳川幕府を助けようという困りきったあげくの策でありました。
 こうして、ひそかに会津へ出陣を命じられたのが、凌霜隊であります。

2、凌霜隊士について
 隊長、朝比奈茂吉は当時17才の少年で、郡上藩江戸詰家老、朝比奈藤兵衛の長男であります。
  副隊長の坂田林左衛門(坂田茂平次通貫−新心流居合術7代)、参謀長の速水小三郎を中心に江戸
 詰の藩士、並びに、郡上藩士合わせて、40数名その名も凌霜隊と名のり、会津をめざして出発したので
 あります。

3、会津への道
 途中、小山宿、塩原等で交戦しました。特に塩原では宿舎である、和泉屋、丸屋を残し、更に妙雲寺を戦
 火より守り、現在もそのお陰で、妙雲寺は立派に残されております。

4、 会津の合戦
 その後、会津若松城の守りに、白虎隊と組んで戦い続けましたが、衆か敵せず、ついに若松城に降参の幟
 が立てられたのであります。

5、揚屋(牢屋)のくらし 残り凌霜隊の勇士30余名は、罪人として旧郡上藩へ預けられ、東殿山のふもと赤谷
 村の揚屋 (牢屋)にとじこめられたのであります。

6、開かれた道
 苦しい揚屋のくらしから、郡内の寺々の僧侶により助けられて、長敬寺へ預けられたのであります。
 その後、明治3年の3月赦免(罪人でなくなるゆるし)が言いわたされたのであります。
  江戸を出発してから約2年間、隊士たちは、それぞれ懐かしい家路へと向かったのであります。



辞世の句) 真心の赤き心の仇となり 何ぞはかかる憂き目みるらん   
                                    速水行道



                      平成3年 8月 郡上藩凌霜隊顕彰会より





 ■ 旧郡上藩 新心流居合術    平成21年7月11日



平成21年度岐阜県郡上市八幡町城下において、旧郡上藩城主:青山公入部250年目を記念し、当城下にお
いて代々受け継がれていた郡上盆踊り大会をもとにして、明治維新以後、約150年をへた今年、東京在住の
14代藩主後見人:青山文幸氏を迎え、盛大に江戸時代の青山公の郡上に入部された大名行列を復元し、記
念祭が行われました。

その折、宝暦義民太鼓の表演とともに当藩に関係のある古武道新心流居合術の公開演武が行われた。

その後、直会の場において、戊辰の役の話が話題になった。当時郡上藩は、国表側では官軍につくか、
江戸表側では将軍家につくかで、意見はふたつにわかれていた。

 江戸藩邸では、300年において、徳川家に恩顧を受けていた関係上、家老:朝比奈藤兵衛の息子である
朝比奈茂吉を隊長とし、ひそかに会津藩白虎隊応援の為に郡上藩を脱藩させ、凌霜隊を結成し、参加させ
る事とした。

その折、隊長:朝比奈茂吉は、まだ16歳の若き少年であった為、当時、和新心流を指導していた坂田先生が、
用人として江戸家老によばれ、隊長:朝比奈茂吉の護衛を兼ね、副長として、会津に赴くこととなった。

この件、上記の郡上藩凌霜隊についての資料は発表されていることですが、今回、この青山公入部記念祭
を通じて、現在美濃地方に継承されていた、新心流居合術門人一同この記念祭に、城主:青山公と対面し、
その前にて旧郡上藩伝承の新心流居合術の公開演武をする機会をえました。


本来ならば、当新心流居合術は、主に、西尾藩に継承されていたものですが、先程も述べたように、幕末に
至りて、7代目師範:坂田先生が、戊辰の役に関係して、郡上藩凌霜隊副長として会津に赴かれた事、それ
以降、明治に至り、その門人、鈴木助次郎先生が伝承されて新心流居合術として、現代に至った関係上、こ
の流儀は郡上藩にも関わっていたこともあり、この記念祭を通じ、当主:青山公と対面し、お互いに戊辰の役
(明治維新)の昔を思い浮かべ、藩の為、犠牲になった凌霜隊士のその後の事や坂田先生の昔話を交え、
ひと時を過ごす事が出来ました。

 このような歴史をふまえた上で、当新心流居合術は、旧西尾藩伝承とともに、旧郡上藩伝承新心流居合術
ともいえるものとなります。






 ■ 新心流居合術 系譜






 ■流祖関口弥伍右衛門氏成について



当流が流祖と仰ぐ関口弥伍右衛門氏成について、居合巻物にその名が見られるのを除けば、生没年や居所など
について知り得る記録の所在は未だ明らかではないが、『蒲原町史』の「伊豆守以前の系譜」(蒲原町史編纂委員
会 1968 pp. 140-141)によれば、初代関口経国から数えて関口家12代当主に当たる。

徳川家康の岳父であり、今川義元の義弟にあたる関口刑部少輔氏興(親永、義広、氏広とも)の名は歴史上よく知
られている。桶狭間敗戦後に娘婿である徳川家康の離反を追及され、主君・今川氏真により永禄5年(1562年)自
刃に追い込まれた彼が実質的に関口家最後の当主と目され、関口家は概ねその所領を喪失して事実上滅亡したと
見なせるが、『蒲原町史』の史学的考証によれば、関口家の家督はそれ以後も存続していた事が分かる。

刑部少輔氏興の死後、今川氏真の命により伊豆守氏教が家督を相続したが、駿河国内の関口家旧領は概ね全て
今川氏真に没収され、また初代関口経国以来分国治領してきた三河国内の所領は桶狭間後に台頭した新興の松
平氏(徳川家康)に切り取られた。永禄7年(1564年)に今川氏真が発給した朱印状(静岡県/編 『静岡県史 資料
編7 中世』 1994)によれば、更に追い討ちをかけるように、最後に残った知行の岩淵も天沢寺に寄進するために没
収されている。

いずれにしろ、刑部少輔氏興没後、関口家は勢力を喪失したものの家自体は取り潰されず、伊豆守氏教の流れに関口
家の家督が移って細々と駿河に存続し、伊豆守氏教の孫に当たる関口氏成もその後継者の一人であったことが窺われる。



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