The History of Shinshin-ryu Iaijutsu
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新心流居合術の歴史

新心流居合術は今川一族経国七代氏緑一門、関口弥伍右衛門氏成に始まる。(永禄年間)。今川滅亡後、初祖氏成は愛宕山麓において居合の妙を得、桶狭間の合戦以後、徳川家臣団のあいだに広く伝われしものなり。彦根藩、桑名藩、松代藩、美濃岩邑藩、西尾藩、尾州藩等に伝わる。当新心流居合術は西尾藩松平和泉守家士族子孫に伝われしものである。

「居合ハ未ダ物ノ発セザルノ内ナリ。先ノ先トテ鞘ノ内ニアリ。モト敵ヲ切ルノ先ニアリ。先ノ居合ヲ大極ノ太刀ト云フナリ。是故ニ抜キ放テバ剣術トナル。」(新心流居合術奥伝) 称号、段位の取得のみを目的とする現代のスポーツ剣道とはまったく異なり心技体一如、万物和合の精神を学び、ひいてはこれを実生活の場で生かすことを目的とする。

新心流居合術の系譜
●初祖 関口弥伍右衛門氏成    ●二代 久世十太夫
●三代 山路甚左ェ門       ●四代 志賀太弥兵衛
●五代 熊倉彦衛門        ●六代 猪川弥左ェ門
●七代 坂田茂平次(通貫)    ●八代 鈴木助次郎
●九代 稲垣雄之助        ●十代 亀谷鎮
●十一代 山田昌孝

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            新心流居合術の発生
              稲垣雄之助(奥磯栄麓)
                   先生 覚書
■新心関口流居合

関口弥伍衛門氏成の創始した関口新心流は明治維新以後記されている事柄、たとえば(武芸流派大事典)(綿谷雪、山田忠史編)等を見てその系譜の疑わしいのに気付く、桶狭間合戦以後今川氏の一族で、馬廻り衆評定衆(家老・城主)関口氏は討死にもしくは没落し、多くの諸将は姿を消し、「その後の系譜も又つまびらかではない。ただ天正まで生き残ったのは、 瀬名氏系・関口刑部小輔氏広は関ヶ原以後自刃し関口系の実力者は氏広の娘、松平元康の妻、筑山御前だけとなった。」 明治維新後に脚光をあびたのは、関口流諸派の内では、柔術の開祖と言われる、関口弥六衛門氏心(紀州徳川)であり、居合と共に関口流開祖と言われて来たが、その系図とかの伝記にあいまいな点が多い。 関口刑部小輔氏広には男子がいたのかどうか疑わしいのに、外記氏幸がいて、築山御前の子信康に嫁いだ加納姫の被護云々、の記述になると無理がある。信康の妻は徳姫であり、加納姫(亀姫)は築山御前の子信康とは兄弟であり奥平信昌に嫁いでいる。その後の記述にも随分無理が有って歴史家の常識から見ると、一等資料とは言えない(田舎文書系譜の様に間違いが目につくのが武芸流派大事典) 関口弥伍衛門氏成は、その正体不明の弥六衛門氏心の甥とかで時代がまるで合わない。したがって史上有名な築山御前と結びつけて述べるような事はやめて只、関口新心流は御神体が九能山、愛宕山大権現で徳川家康と氏成の結びつきの方を強調したい。 関口新心流祖は、駿河から一時的三河にいた。そして駿河に戻り流儀を開く。だから駿河で発生し江戸そして全国と伝播した様である。関口氏の娘 築山御前は、家康の正室であってその待女お万の方も家康の次男秀康を生んでいる。築山殿の娘 亀姫 加納殿もいて徳川の直接被護があり今川没落後、関口新心流はその時点から発生している。又、築山御前の母は、井伊氏の出身で井伊直政の保護もあり、井伊家も新心流が伝わっていた(尚、関口外記は天正頃の武蔵の国の関口外記か)
                         昭和六十二年 九月十日 
■新心流居合の発生

一、新心流
二、紀州関口流
三、熊本関口流の居合剣法は同じとしても江戸新心関口流が古いのか?紀州の関口流の方が古いのか?が問題なのだが、私の推察では先述したように、関口流居合は駿河で発生し柔術は後に紀州徳川の関口流で完成したと思われる。関口氏の発生は、一等資料(尊卑文脈)一等資料(寛永諸家系図伝)(今川家譜)等を参考に関口氏を考えてみたい。 三河足利長氏の子に二男が 今川の祖 国氏、その二男が関口次郎常氏と言い、この家系は続いていないが、五男の関口五郎経国の家系が続きこれが今川の正系で 七代目は花咲城主で関口越中守(行部大輔)氏緑であり、永禄三年今川義元の馬廻衆(旗本 評定衆)として織田信長の桶狭間奇襲で討死にし、ほかに桶狭間には関口を名乗る者が、三名程いる。別に今川の士族に瀬名氏がおりその系累に関口行部小輔氏広がいて義元の妹婿、で弘治三年四月(天王寺屋宗達自会茶湯日記)に関口行部将と言うのは氏広のことであろう。 氏広は永禄五年に自刃している桶狭間にはいなかったので、都にいて義元の上洛を待っていたのであろう。関口流(武芸流派大辞典)に氏広の子に外記氏幸という子がいた?と記されているが、築山殿に兄弟がいたと言う事は、どの系譜にもないので、疑わしいと思われる。しかし、もし、いたとしても紀州関口流につながる問題であって、新心関口流の関口弥伍衛門氏成については関口本流の(越中守氏緑)一族という可能性が考慮される。 というのは、弥伍衛門氏成は、年少ながらたとえば十五、六歳で桶狭間合戦の時にいた可能性を新心流目録から年代的逆算するとその年代にあたる。それについて補足説明すると新心流関口弥伍衛門尉氏成目録には初代氏成二代服部光安、三代山田三郎兵衛とあり三郎兵衛が慶安二年四月吉日に吉田八郎兵衛に目録を伝授している。すべての箇条目録を伝授されるのは江戸後期をみるとだいたい三十歳を過ぎて伝授される所から山田三郎兵衛の三代前の生まれが、ざっと百年前として、天文二十年(一五五一)永禄三年は、九才であり、もう少し前の天文十年代の生まれなれば、桶狭間合戦に出陣していた可能性はここから生まれる。今川一族の評定衆関口越中守氏緑の一族とか、他の関口一族の子として充分考えられるのである。(武芸流派大辞典)によると、天正三年の長篠の戦いの時、長篠城を死守した奥平信正に十七歳で結婚した加納姫に仕えていた云々の関口外記氏幸と弥伍衛門氏成はほぼ同世代でありその孫であるとは考えられない。
                          昭和六十二年 九月十日
■松平和泉守と新心流

松平和泉守は大給松平といい室町末期の松平系図で、家康系譜は、親忠の次男長親の子孫だが、長男の乗元が大給松平の初代で、その後家康の祖父清康の娘が大給松平に嫁しているので松平の一族として家康と常に戦場をともにしていた。その和泉守の家臣の教授方が柳生十兵衛光厳系の新陰流、養勇剣術や克己流を始めたのはつまびらかでない。他に新心流居合が幕末まで流行していたが、和泉守の家中で、新心関口流居合が発生したのはいつの頃か、これもつまびらかでない。しかし、家中でもっとも古い今井氏に継いで、古い家臣に鈴木氏がいてその系流の私の先祖が幕末期に新心流秘伝目録を伝授されている所から柳生流と同じく、松平和泉守は、新心流居合を幕閣において居合諸流の内でも重視していたとも充分考えられる。

和泉守は徳川一族として老中とか、大老とかを歴任している関係から幕府の中でも発言力の強い立場であり、すでに桃山時代から殿様剣法として認めていたようだと思う。

関口弥伍衛門氏成が御三家や将軍の教授方でなかったとは言え、幕府に仕えてその道場が江戸にあって有力大名の家臣すじが道統を守っていた。ただその支流の関口弥六右衛門が紀州徳川家に寛永期仕えたので、紀州関口流の書類や口伝もふくめて明治維新以後発表された為か、しかし関口流の元祖はだれか?云々よりも新心流の剣技だけ残したいものである。(本流は倒幕で壊滅状態、尾州・紀州・肥後は官軍についた。)

(注)八代鈴木助次郎先生は、岩邑藩家老西尾藩にいた。維新以後身をかくし美濃武儀中学校の用務員であった。昭和六十二年 九月十日

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新心流居合術 系譜

















流祖関口弥伍右衛門氏成について
当流が流祖と仰ぐ関口弥伍右衛門氏成について、居合巻物にその名が見られるのを除けば、生没年や居所などについて知り得る記録の所在は未だ明らかではないが、『蒲原町史』の「伊豆守以前の系譜」(蒲原町史編纂委員会 1968 pp. 140-141)によれば、初代関口経国から数えて関口家12代当主に当たる。

徳川家康の岳父であり、今川義元の義弟にあたる関口刑部少輔氏興(親永、義広、氏広とも)の名は歴史上よく知られている。桶狭間敗戦後に娘婿である徳川家康の離反を追及され、主君・今川氏真により永禄5年(1562年)自刃に追い込まれた彼が実質的に関口家最後の当主と目され、関口家は概ねその所領を喪失して事実上滅亡したと見なせるが、『蒲原町史』の史学的考証によれば、関口家の家督はそれ以後も存続していた事が分かる。

刑部少輔氏興の死後、今川氏真の命により伊豆守氏教が家督を相続したが、駿河国内の関口家旧領は概ね全て今川氏真に没収され、また初代関口経国以来分国治領してきた三河国内の所領は桶狭間後に台頭した新興の松平氏(徳川家康)に切り取られた。永禄7年(1564年)に今川氏真が発給した朱印状(静岡県/編 『静岡県史 資料編7 中世』 1994)によれば、更に追い討ちをかけるように、最後に残った知行の岩淵も天沢寺に寄進するために没収されている。

いずれにしろ、刑部少輔氏興没後、関口家は勢力を喪失したものの家自体は取り潰されず、伊豆守氏教の流れに関口家の家督が移って細々と駿河に存続し、伊豆守氏教の孫に当たる関口氏成もその後継者の一人であったことが窺われる。

関口家系譜


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