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■新心関口流居合
関口弥伍衛門氏成の創始した関口新心流は明治維新以後記されている事柄、たとえば(武芸流派大事典)(綿谷雪、山田忠史編)等を見てその系譜の疑わしいのに気付く、桶狭間合戦以後今川氏の一族で、馬廻り衆評定衆(家老・城主)関口氏は討死にもしくは没落し、多くの諸将は姿を消し、「その後の系譜も又つまびらかではない。ただ天正まで生き残ったのは、 瀬名氏系・関口刑部小輔氏広は関ヶ原以後自刃し関口系の実力者は氏広の娘、松平元康の妻、筑山御前だけとなった。」 明治維新後に脚光をあびたのは、関口流諸派の内では、柔術の開祖と言われる、関口弥六衛門氏心(紀州徳川)であり、居合と共に関口流開祖と言われて来たが、その系図とかの伝記にあいまいな点が多い。 関口刑部小輔氏広には男子がいたのかどうか疑わしいのに、外記氏幸がいて、築山御前の子信康に嫁いだ加納姫の被護云々、の記述になると無理がある。信康の妻は徳姫であり、加納姫(亀姫)は築山御前の子信康とは兄弟であり奥平信昌に嫁いでいる。その後の記述にも随分無理が有って歴史家の常識から見ると、一等資料とは言えない(田舎文書系譜の様に間違いが目につくのが武芸流派大事典) 関口弥伍衛門氏成は、その正体不明の弥六衛門氏心の甥とかで時代がまるで合わない。したがって史上有名な築山御前と結びつけて述べるような事はやめて只、関口新心流は御神体が九能山、愛宕山大権現で徳川家康と氏成の結びつきの方を強調したい。 関口新心流祖は、駿河から一時的三河にいた。そして駿河に戻り流儀を開く。だから駿河で発生し江戸そして全国と伝播した様である。関口氏の娘 築山御前は、家康の正室であってその待女お万の方も家康の次男秀康を生んでいる。築山殿の娘 亀姫 加納殿もいて徳川の直接被護があり今川没落後、関口新心流はその時点から発生している。又、築山御前の母は、井伊氏の出身で井伊直政の保護もあり、井伊家も新心流が伝わっていた(尚、関口外記は天正頃の武蔵の国の関口外記か)
昭和六十二年 九月十日 |
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■新心流居合の発生
一、新心流
二、紀州関口流
三、熊本関口流の居合剣法は同じとしても江戸新心関口流が古いのか?紀州の関口流の方が古いのか?が問題なのだが、私の推察では先述したように、関口流居合は駿河で発生し柔術は後に紀州徳川の関口流で完成したと思われる。関口氏の発生は、一等資料(尊卑文脈)一等資料(寛永諸家系図伝)(今川家譜)等を参考に関口氏を考えてみたい。 三河足利長氏の子に二男が 今川の祖 国氏、その二男が関口次郎常氏と言い、この家系は続いていないが、五男の関口五郎経国の家系が続きこれが今川の正系で 七代目は花咲城主で関口越中守(行部大輔)氏緑であり、永禄三年今川義元の馬廻衆(旗本 評定衆)として織田信長の桶狭間奇襲で討死にし、ほかに桶狭間には関口を名乗る者が、三名程いる。別に今川の士族に瀬名氏がおりその系累に関口行部小輔氏広がいて義元の妹婿、で弘治三年四月(天王寺屋宗達自会茶湯日記)に関口行部将と言うのは氏広のことであろう。 氏広は永禄五年に自刃している桶狭間にはいなかったので、都にいて義元の上洛を待っていたのであろう。関口流(武芸流派大辞典)に氏広の子に外記氏幸という子がいた?と記されているが、築山殿に兄弟がいたと言う事は、どの系譜にもないので、疑わしいと思われる。しかし、もし、いたとしても紀州関口流につながる問題であって、新心関口流の関口弥伍衛門氏成については関口本流の(越中守氏緑)一族という可能性が考慮される。 というのは、弥伍衛門氏成は、年少ながらたとえば十五、六歳で桶狭間合戦の時にいた可能性を新心流目録から年代的逆算するとその年代にあたる。それについて補足説明すると新心流関口弥伍衛門尉氏成目録には初代氏成二代服部光安、三代山田三郎兵衛とあり三郎兵衛が慶安二年四月吉日に吉田八郎兵衛に目録を伝授している。すべての箇条目録を伝授されるのは江戸後期をみるとだいたい三十歳を過ぎて伝授される所から山田三郎兵衛の三代前の生まれが、ざっと百年前として、天文二十年(一五五一)永禄三年は、九才であり、もう少し前の天文十年代の生まれなれば、桶狭間合戦に出陣していた可能性はここから生まれる。今川一族の評定衆関口越中守氏緑の一族とか、他の関口一族の子として充分考えられるのである。(武芸流派大辞典)によると、天正三年の長篠の戦いの時、長篠城を死守した奥平信正に十七歳で結婚した加納姫に仕えていた云々の関口外記氏幸と弥伍衛門氏成はほぼ同世代でありその孫であるとは考えられない。
昭和六十二年 九月十日 |
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■松平和泉守と新心流
松平和泉守は大給松平といい室町末期の松平系図で、家康系譜は、親忠の次男長親の子孫だが、長男の乗元が大給松平の初代で、その後家康の祖父清康の娘が大給松平に嫁しているので松平の一族として家康と常に戦場をともにしていた。その和泉守の家臣の教授方が柳生十兵衛光厳系の新陰流、養勇剣術や克己流を始めたのはつまびらかでない。他に新心流居合が幕末まで流行していたが、和泉守の家中で、新心関口流居合が発生したのはいつの頃か、これもつまびらかでない。しかし、家中でもっとも古い今井氏に継いで、古い家臣に鈴木氏がいてその系流の私の先祖が幕末期に新心流秘伝目録を伝授されている所から柳生流と同じく、松平和泉守は、新心流居合を幕閣において居合諸流の内でも重視していたとも充分考えられる。
和泉守は徳川一族として老中とか、大老とかを歴任している関係から幕府の中でも発言力の強い立場であり、すでに桃山時代から殿様剣法として認めていたようだと思う。
関口弥伍衛門氏成が御三家や将軍の教授方でなかったとは言え、幕府に仕えてその道場が江戸にあって有力大名の家臣すじが道統を守っていた。ただその支流の関口弥六右衛門が紀州徳川家に寛永期仕えたので、紀州関口流の書類や口伝もふくめて明治維新以後発表された為か、しかし関口流の元祖はだれか?云々よりも新心流の剣技だけ残したいものである。(本流は倒幕で壊滅状態、尾州・紀州・肥後は官軍についた。)
(注)八代鈴木助次郎先生は、岩邑藩家老西尾藩にいた。維新以後身をかくし美濃武儀中学校の用務員であった。昭和六十二年 九月十日 |